
信じていた人から思いがけない裏切りをうけるとき、とっても傷つきますよね。
それらはある種の執着が伴っている相手から、非常につらい拒絶、または理解されないという苦しみをともなう出来事です。
「裏切られてしまった」「彼が私を裏切った」「信じていたのに裏切られた」
「裏切り」というととてもヘヴィーな響きです。
一見相手の行為によって傷つけられたように感じますが、
裏切られたという苦しみを解体していくと、見えてくる
本当の痛みは単に誰かを失うということや、関係性を失うということだけではありません。
本当の苦しみは、あなたがその人に注いだ愛、誠意、そして努力が無駄になったように感じることです。
<自分の愛が相手に届かなかった>
そう感じることがエゴにとって激しい痛みなのです。特に愛着や執着がある相手に対して比例してその痛みは増すでしょう。
彼らが去ったり裏切ったりすることだけが痛いのではなく、むしろそれよりも多くの人が苦しみを感じるのは
結果的にこの否定・無視される経験、
あなたが与えたすべてのもの、あなたの心の中で大切にしていたものが認められなかった、
または価値がなかったように感じることが、じつは耐え難いほど辛いのです。
誰かを深く愛するとき—パートナー、友人、あるいは親など、
あなたは心から信頼を寄せ愛情を与えたかもしれません。
自己犠牲的であるほど、私たちはその愛が意味を持つことを期待します。
それが無視されたり、ぞんざいに扱われたり、切り捨てられたりしたとき、その痛みは単なる喪失にとどまりません
—それはあなた自身がその人の世界に存在しなかったかのように感じることです。それは感じることのできる最も深い拒絶です。
体験を受け入れてのりこえるには
このような体験を乗り越えるためには、痛みがどこから来ているのかを理解することが重要です。
それは単に相手の行動によるものではなく、「あなたが注いだ愛と努力がその相手には意味が無かったように感じた」という事実に起因しています。その感覚—あなたが与えたものが相手に届かなかったという感覚—それが本当の痛みです。
この痛みを乗り越えるためには、あなたが与えた愛が無駄ではなかったことを認識することが重要です。人間は限られた存在であり、私たちの心や感情は変化します。人間にすべてを期待することは無理があるのです。
同時に、こんな質問もしてみてください。あなたはその相手に何を期待していましたか?自分を犠牲にして、ぞんざいにしていませんでしたか?直感的なサインを見逃したり、見ないふりをしていませんでしたか?あなたはその愛を自分にも与えていましたか?
心の平和は無償の愛から来ます。それは「条件付き」を手放した時に起こります。
他者に自分を犠牲にして与えることではなく、最初から期待せずに愛を与えることで、こころの平和は戻ってきます。
相手をどうにかしようとせず、相手のままにしておきましょう。相手の選択も、相手の裏切りも、そのままにして手放しましょう。
他者に対して不可能な基準を設けないということです。愛を与えるのは、あなたの自然な性質だからであり、返ってくることを期待して与えるのではありません。そのようにすることで、裏切りの痛みから解放されます。最終的には、愛は決して消えることはないからです。
たとえ一人の人がそれを受け取らなかったとしても、あなたの中の愛は変わらず存在します。
一時的な対象ではなく、永遠に感じられるふさわしい場所にその愛を捧げるー
大きな喪失と無念感、拒絶などの苦しい体験は大きな気づきをもたらしてくれることが少なくありません。
この無償の愛は、アートマン(真我)—あなたの真の自己 に根ざすとき、決して失われることはありません。
愛は変わることのない場所に根ざし、決して無駄にはならないのです。